空と構造|tekuta.com

哲学、歴史、宗教、バイク、組み込み、好きなことを綴るノート

【書籍紹介】コンサルを超える 問題解決と価値創造の全技法

はじめに

コンサルタントの問題解決技法と考え方、さらには21世紀のビジネスが目指すべき価値創造について語られた本です。

マッキンゼー、ボスコン両社で経験を積み、現在は一橋大学大学院経営管理研究科特任教授であり、ファーストリテイリングや味の素の社外取締役をも務められている名和高司さんの著書です。

本書の中で言及される問題解決技法は多岐にわたりますが、この記事では私が特に重要と感じた4点について絞って紹介します。

基本的には太字さえ追っていけば必要な情報を得られるように構成しています。時間のある方は全文読んでいただけると、理解が深まると思います。

 

 

 

①仮説を立てて切り込め

まず前提として、コンサルが依頼者から仕事を受けた際に始めにすることは「真の問題は何かを探る」こと。依頼者が言う問題は真の問題ではないこともあるからです。

この問題分析の際に「仮説を立てて切り込め」ということですが、言い換えると、「真の問題が何かをあたりをつけて分析しろ」ということです。

なぜか。

「すべてを隈なく調査して問題を炙り出す」というやり方では、あまりにも時間がかかるだけでなく余計なものまで見えてしまい、かえって問題解決から遠のいてしまうということです。

本書の中ではボイル・ジ・オーシャンという言葉で説明されていますが、要は問題がどこにあるか分からないなら蒸発させて全て見えるようにしてしまえということです。しかし、そんなことは到底無理でしょう。

問題は、すべての要素の中から見つけるものではなく、はじめからこういうことじゃないかという仮説を持って見にいくものだ。つまり、「イシューからはじめる」ことが重要なのだ。

完璧主義で全てを拾って100点を狙うのではなく、本当に解決すべき問題をピンポイントで狙いにいくほうがスジが良い、ということでしょう。

②失敗を許容しながら高速に試行せよ

①で仮説を立てて切り込めという話がありました。真の問題に迫るには、仮説を立て、ファクト(事実)を見て、さらに仮説を練り直していく。この一連の繰り返しを高速で回していく必要があります。

シリコンバレーなどのスタートアップ界隈では、これをリーン・スタートアップといいますが、まったく同じことです。

最初から完璧なものをつくる のでは なく、まずMVP(ミニマム・バイアブル・プロダクト = 最低限役に立つ商品)を市場に出す。そしてマーケットの反応を見ながら、つくり直していく

最初から正解にたどり着くのは難しい。じゃあどうするか。目星をつけて試行して、フィードバックする。これを高速で回すことに意味がある。

このとき、試したことが失敗するというのは往々にして発生します。しかし、言い換えると「そこに正解はなかった」ことが分かったとも言えます。

グーグルでも、企画が外れるとお祝いする文化があるようです。

そちらに行っても道はないことを見つけたことに対するお祝いだ。仮説検証がひとつすんだことをみなで祝うわけである。

このように失敗をよしとする文化では、ダメだったらダメと報告できる環境が整っているとも言えます。逆に、失敗をよしとしない文化だったらどうなるか。失敗だとわかっていながらずるずると続けてしまう、隠ぺいするということも発生しかねません。

トヨタでは、不具合を見つけた段階ですぐに工場のラインを停止させ、原因を追究するそうです。普通ならラインを止めるなんて言語道断。数秒の停止が数百万、数千万の損失につながるからです。しかしそれは短期的に見た損失の話で、長期的に見たら数億、数十億の損失を回避したとも言えます。

ラインを止めても、クビにならないどころか、ボスからありがとうと感謝される。(中略)そうすることで、現場は、失敗を隠さず、それを貴重な学習機会にしていく。(中略)学習するためには、失敗を認める勇気、いったんは行けると思ったものを壊す勇気が必要なのだ。

 

③トレードオンを目指せ

ずばり、本書で書かれている21世紀のビジネスにおける目指すべきポジションはトレードオンの領域です。説明します。

コンサルのお得意芸として、マトリクス解析が挙げられます。トレード”オフ”となる2軸を用意し、製品や会社の立ち位置をマッピングすることで市場の構造を分析できるため、よく使われる手法です。

例えば、価格と品質はトレードオフの関係と知られていますが、よくよく考えれば(いや普通に考えても)右上のマスが最も価値があることに気づきます。安くて品質が良ければ言うことありません。

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上図のように、トレードオフと考えられている2軸でマッピングすることで、真に価値がある領域がわかってきます。それは、トレードオン(両立)の領域です。

どちらか一方をとるのではなく、どちらも両立したところに革新性がある。イノベーションはそうして生まれてきた、と本書では語られています。

また、実は日本では明治時代の渋沢栄一もトレードオンを実践してきました。それは、経済価値と社会価値の両立(経済を回し、それを独り占めにするのではなく社会に還元していく)です。

この、経済価値と社会価値の両立を目指す活動を、本書ではCSV(Creating Shared Valueと呼んでいます。詳細は掲載しませんので是非読んでみてください。

④分別の限界、これからはシステム思考だ

コンサル的な要素分解の分析方法は、混沌とした無秩序な状態を切り開くには有効な手段ですが、21世紀の時代に、企業として価値を出していくことを考えると要素分解だけでは限界が来ています。

本書ではこの要素分解に頼る問題解決手法を「要素還元的問題解決」と呼んでおり、全体最適が求められる問題に対しては限界と述べられています

全体を見ないで、ひとつのことだけを解決の糸口にしてしまうと、そこからほころびが生じて、すべてが崩壊してしまうこともある。これが、要素還元的問題解決の限界だ。

③で記載したように、トレードオフの2軸で分析することで現状のポジションを理解することができました。そして、両立を目指したトレードオンの領域が見えてきました。これは要素分解による功績です。

しかし、ことトレードオンの実現については考え方を変える必要があります

一見すると相反するものを両立しようとする試みを「アウフヘーベン」といいますが、言い換えると、2つに分かれていたものを統合し、新しい価値を出していくこと、といえます。

これまでの要素分解の流れとは違い、今度は要素を統合し、高いレベルのアウトプットを出していく全体最適的な考え方です。

このように、複数の要素から構成されたものにおいて、その関係性をそのままに考察し、適切な統合を図り、結果を出していく考え方をシステム思考といいます。

本来、複雑に絡み合っているのがシステムだ。その関係の複合性、多重性をあるがままに考察しようとするのが、「システム思考」である。

要素一つに注目するだけでなく、全体としてのアウトプットに着目し、全体で最適化をかけることが必要ということです。

まとめると、トレードオンのような2つの相反するものを実現するには、絡み合う複数の要素をそのままに理解し、どうしたら両立できるかを全体最適の目線で切り込んでいくべき、ということです。

おわりに

要素分解(分別をつける)ではなく、全体として最適化をかける(一つのものとして理解する)という考え方は仏教的な考え方に近いものを感じました。

現実は複雑に絡み合っているので、全てを分解して論理的に組み立て、思い通りの結果を出すのはとても難しいと思います。取り分け、相反するものを実現しようとするなら尚更です。全体を見ながら、泥臭くバランスをうまくとっていくしかないのかなと感じました。

この記事では紹介しきれませんでしたが、IQ・JQ・EQ、U理論などのAI時代にフォーカスしたコンサルの在り方の話も大変興味深かったです。

ご興味持たれた方はぜひ一読してみてください。

【書籍紹介】リーダーの仮面「いちプレーヤー」から「マネジャー」に頭を切り替える思考法

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はじめに

本書は株式会社識学の代表取締役社長の安藤広大さんの著書です。
マネージャーに必要な考え方が端的に述べられている非常に明快な実用書です。

本書で述べられている5つのポイントについてまとめてみました。
私が特に重要と感じた項目についてピックアップして記載しますので、全文が気になる方は是非読んでみてください。

 

マネージャーに必要な考え方とは

まず初めに、本書で紹介されている考え方を私なりに端的にまとめると、「感情や人間関係でチームを作るのではなく、徹底したルールのもと事実だけに着目して運営していけ」ということです。

この考えを、①ルール、②位置、③利益、④結果、⑤成長の5つの観点からより具体的な手段としてブレイクダウンして紹介しているのが本書になります。

それぞれ具体的に見ていきます。

①ルール:場の空気ではなく言語化されたルールを作る

チームには、誰にもわかる、誰にも守れる明文化されたルールが必要だと述べられています。

理由としては、人はある程度制限されている方が行動しやすい(ストレスがない)ことや、ルールが無いとリーダーの顔色を窺って行動するようになるだけでなく、人によって扱いが違うなど、人間関係のストレスが出てしまう等が挙げられます。

リーダーが意識すべきなのは、人間関係という心身のストレスから部下を守れるか、ということでしょう。

新しいルールを作り、徹底した運用を開始すればそれなりに反発が出てくるのが組織です。

しかし、そこで「嫌われないかな」のような感情を持ち込むことは一切やめ、リーダーというペルソナを被り、徹底してルール守らせることが必要と述べれらています。

チームが成長するかどうか。
それは、リーダーが感情に寄り添うことをやめられるかどうかが鍵を握っているのです。

 

②位置:対等ではなく、上下の立場からコミュニケーションする

今日の多くの会社は経営者をトップとして、役員、部長、課長、、、というピラミッド組織になっています。

ピラミッド組織である以上、上司が責任を負い、部下に指示し、部下は与えられた裁量の中で責務を全うし、上司はその仕事を評価する、という上司と部下それぞれの役割を全うすることが求められます。

この上下の立ち位置を明確に理解させることが必要と述べられています。

上下の立ち位置を理解させるためにリーダーがとるべき行動として、本書で紹介されている方法は以下の通りです。
・褒美で釣って仕事を依頼しない
機械的報連相をさせる(言い訳をさせない)
・事実だけを聞く(言い訳をスルーする)
・乗るべき相談だけ乗る
 ⇒・部下の権限では決められないこと
  ・部下の権限で決めていい範囲かどうか
  上記2つ以外の相談は乗らない

感情で評価したり、褒美で釣って仕事を依頼するなどの人情味あふれた人間臭いやり方は一切捨て、部下は機能として動かせ、ということでしょう。

どうしても部下の感情を気にしてしまいがちですが、ここでもリーダーというペルソナを被って感情は横に置いておくことが求められます。

ピラミッド組織では、立場が上にあがればあがるほど、孤独になります。

 

③利益:人間的な魅力ではなく、利益の有無で人を動かす

人が行動するきっかけはただ一つ、自分に利益があるときだけです。
人間的に良いリーダーであっても、部下にとってそのリーダーについていくことが利益で無ければ離れていきます

リーダーは、人間的に好かれることを目指すのではなく、
チームを組織としての利益に向かわせることが必要、と述べられています。

組織としての利益を獲りにいけば、その過程で得られる経験が各人の成長となり、つまりは個人の利益になるということです。

また、部下から人間的に好かれたいという思いがあると、部下から嫌われることを恐怖に感じるかもしれませんが、その恐怖は間違いです。

本来であれば、チームとしての成果が上がらないことに恐怖を感じるべきです。

恐怖を正しく感じることができれば、チームの成果は上がります。
本書では、”いい緊張感”という言葉で紹介されています。

いい緊張感を生むために本書で紹介されているのは
・言い訳の余地をなくす
 ⇒・あいまいな表現を具体的に問う(大体→何件中何件か、など)
  ・事実で詰める
・言い訳はスルーする
・ルール違反や成績が悪かった場合、必ず言及する
 例えば成績が悪くても何も言われなければそれでOKと受け取られてしまう
・貶すのではなく、事実で詰める
・健全な競争状態を作る
 ⇒ルール、公平さ、順位など

課長が自分の身を守ろうと思ったら、「課の成果が上がらないこと」に恐怖を感じなければなりません。「この瞬間に部下から嫌われる恐怖」が優先されているのなら、それは錯覚です。

 

④結果:プロセスではなく、結果だけを見る

学校教育とは違い、会社という利益を出さなくてはならない組織においては、プロセスがどうであれ結果を出さないと意味がありません。

また、人気者や仲がいい部下を評価することも言語道断です。人間的な魅力で評価をし始めるとチームの成果は出せなくなっていきます。
あくまで結果だけを見て評価することが必要です。

リーダーがやるべきことは、
目標設定し、仕事を任せ、結果を報告させ、評価すること
です。

いい緊張感を持つためには、
できなかったことを客観的事実に基づいて具体的に指摘すること
です。

そうして次回はその反省に基づいて改善していくことになります。このサイクルがいい緊張感を維持しながら成果を上げていくことにつながります。

何ができていないかを認識させることが、リーダーの役目です。

⑤成長:目の前の成果ではなく、未来の成長を選ぶ

チームが成長するとき、チームは健全な競争状態にあり、リーダーは管理することがメイン業務になります。

リーダーもプレイングマネージャーとして働く場合、
リーダーがトッププレイヤーとして目先の利益を追求しがちですが、間違いです。そのような組織は伸びません。
リーダーはマネージャーとしての仕事を優先すべきで、トップになるべきではありません

リーダーは、④で紹介したように、目標と結果からギャップを指摘し、どうすれば改善できるかを導くことが役割です。

「先頭の鳥がリーダーではない」ということです。
リーダーは、さらに上から全体を見渡し、指揮する立場にいます。先頭の鳥は、部下の中のトッププレーヤーです。

 

おわりに

仲良しこよしのぬるま湯では本来必要な緊張感が生まれず、組織としての成果が出せないというのは、私自身、実感するものがあります。

安藤広大さんの著書で紹介されているリーダー論は、人間関係を重視される方からはいろいろな意見があるようですが、私自身は組織としては必要なエッセンスだと感じました。

人間関係が良いから成果が出るのか、
成果が出たから人間関係が良くなっていくのか、
鶏卵問題的な話ですが、どっちだとも言い切れないというのが個人の見解です。どっちもあると思います。

しかし、一つ明確に言えるのは、人間関係を良くすることは目的じゃないということです。会社という組織である以上、利益を出してなんぼです。

正しく恐怖感を持つべきという考え方、個人的にカチッとはまった気がします。

「空気」の研究 解説と論考

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「何故その意思決定をしたのか。あの時よく考えばこんな失敗はしなかったんじゃないか。」

我々は常にこんなことの繰り返しである。
後から振り返れば、根拠もなく、何故その意思決定をしたか全く説明できない。
明らかに不芳な意思決定をしているのに、その当時は全くと言っていいほど気づいていない。いや、気づいているけど言い出せない何か、すなわち空気に縛られているのか。

空気といえば、2007年流行語大賞にエントリーされた「KY=空気読めない」の”空気”がすぐに思い浮かぶ。

「KY」という言葉の背景にあるのは、「空気は読むことが当然」という”空気”であり、見えない何かに勝手に支配されがちな現代日本人の一般性を実に的確に表現している言葉だと思う。

そんな我々を苦しめる”空気”について、時代背景や宗教観といった目線から切り込んだ山本七平の名著『「空気」の研究』を紹介したい。

本稿の構成は下記の通り。

 

空気とは

空気、これが何かを的確に表現している言葉があるのでそのまま引用させてもらう。

それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力を持つ超能力(p.23)

「抗空気罪」とはよく言ったものだ。
これがまさにKYであるわけだが、空気を読まなかった者は村八分によって葬られることは想像に容易い。

意思決定の場においては、もちろん我々は空気だけで判断しているかといえばそうでなく、論理的判断をベースに議論を積み重ね、その過程で空気が生まれ、最終的には空気的判断によって意思決定をしている
一度生まれた空気を覆すのは至難の業だ。反論したところで飲み込まれてしまう。

議論が終わり、時間が経ってから振り返ると何故その意思決定をしたか論理的に説明できないものだから、それは”空気”に支配されていたということになる。

では、この空気は一体どのようにして生まれるのか。


どのようにして空気は生まれるか

本書では、
臨済感的把握の絶対化」
によって空気がつくられると述べられている。
そしてその前提として「感情移入の絶対化」がセットであるとも述べられている。

これだけ聞いてもわからないので、順番に読み解きたいと思う。

まず、臨在感把握とは何か。
簡単に言うと、人やモノ、命題(言葉)などのシンボルに対して、その対象の背後に何かが”在る”とする態度のことをいう(下図)。

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例えば神社や、仏像、お墓など、そこに何かしら”在る”と感じるといえば、かなり身近に感じられるのではないか。
それは単なる物質であって本質的には何も無いんだと言ってしまうと身も蓋も無い話だが、”在る”ように感じるのは自由である。

トイレの神様という歌があったように、日本人にとってはどんなモノや場所や人でも、何かしらが宿っている、そこに”在る”と把握することは馴染みやすいように思える。

そして、絶対化とは、
それしか存在せず他には何も無く、そうすることが当然で無意識にそうしている状態のことを指している。

つまり、「臨済感的把握の絶対化」を言い換えると「無意識にそこに”在る”と感じてあらゆる行動や言論が支配されているが、それに気づいていない状態」といえる。

そして、「感情移入の絶対化」とは、怖い、楽しい、苦しい、可哀想、といった感情移入を無意識に行い、感情移入をしていることに気付いていない状態といえる

これらの条件が揃えば、空気が生まれるのは想像に容易い。
シンボルの背後に何かが在ると感じ、信じて疑わない。その何かに”怖い”などの感情を無意識に乗り移らすことで怖い何かがそこに在るように感じ、人々は自分たちが生み出した何かによって言論・行動が支配されてしまうのだ(下図)。

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なぜ臨済感的把握が生じるのか

臨済感的把握の絶対化によって、自ら勝手に生み出した”何か”=”空気”によって自ら支配されるという構造は前述の通りだ。

では、そもそもなぜ臨済感的把握をしてしまうのか。

臨済感的把握文化を支える要因は2つある。
アニミズム文化」と「日本的儒教による忖度」
だ。

臨済感的把握を支える要因

日本の根本的な世界観に、アニミズムというものがある。アニミズムとは、モノ(無機物、生物問わない)に霊が宿っていると考えることを指す。

先に述べた通り、我々は神社や仏像やお墓に対して、何かしらそこに”在る”と感じることに、あまり抵抗感は無いのではないだろうか。
ほとんどの日本人が、お正月には初詣で神様に手を合わせ、健康に過ごせますようにと願う。昔から慣れ親しんだ文化であり、生活の一部になっていることを考えれば、アニミズムは馴染み深いと再認識できるだろう。

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山に、川に、木に、岩に、あらゆる自然に霊的な何かが宿り、我々の暮らしを見守っている、支配している、と昔の人は考えた。

現代の我々からしても、そんな気もするし、もしかしたら違うかもしれないけど、別に否定はできないし、そうであってもいいと思える人が多いのではないか。

こんな感じで、あらゆるものに霊的な何かが宿ることを抵抗なく受け入れられるから、そりゃ八百万の神になるよなと納得できる。

しかし、一方でこの考えを徹底的に否定する民族もいる。いわゆるセム一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教)だ

彼らにとっては、神は唯一であり、神が全てを創造したから、神とその他という関係になる。

神はただ1つで絶対的だから、もちろん名前は必要ない。我々が通常、名前をつけて呼び合うのは、数多くいる人間の中から区別して会話しないと日常生活がままならないからであり、つまり相対化していることになるが、もし神に名前をつけてしまうと、他の神と区別すること=他の神の存在を許してしまうことになってしまうから、それは神に対する冒涜であり、禁忌とされる。

同じ理由で、偶像崇拝も徹底的に排除される。何かしらの偶像に、神が宿っていると感じる=臨済感的把握をした時点で、唯一の神とは別のモノを神として崇めることと同義となるため、神に対する冒涜になる。

そして、自らが臨済感的把握によって勝手に創り出した”別の神”によって言論や行動が支配されてしまうから、これは徹底的に排除された。

絶対に相対化が許されない「神の名」は、その名が臨済感的に把握されて偶像化し、その偶像化によって偶像崇拝を招来し、逆に「神」を冒涜する結果になることを防ぐため、絶対に口にしてはならないはずである。確かにそうなった。ユダヤ人は神だけを絶対視するが故に、神の名を口にすることを禁じた。この禁止は絶対的であった。(p.78)

以上のように、他の民族と比較することで、日本人の根底にある考え方がかなり鮮明に見えてくる。
日本人のアニミズム的考え方が、あらゆる臨済感的把握を支えるプラットフォームのような働きをしているといえる

 

続いて、別の視点で臨済感的把握を支える要素を見ていきたい。
「日本的儒教による忖度」だ。

儒教自体は仏教よりも早い時期に日本に輸入されたようだが、現代につながる”空気”の布石としての儒教は、徳川時代以降の「忠孝一致」の考え方が生まれたタイミングであり、これを”日本的儒教”と呼んでいる。

儒教孔子を始祖として中国で生まれた哲学・思想体系であり、そのベースになるのが「忠」と「孝」という人に接する際の心のあり方である。

「忠」は、君臣間(組織における上司と部下)における態度であり、「考」は父子間(家族、身内)における態度である。
それぞれ字のごとく、「忠誠」と「孝行」と考えるとわかりやすい。

中国では「忠」よりも「考」が重要と考えられ、ある種「忠」に対する概念が現代の我々一般的な日本人と異なる(と思われる)ため、本文の言葉を借りてその理解を深めたい。

孔子は確かに相手に対して誠実であった。諸侯の一人に仕えた以上、彼はそれに対して、忠誠であったが、しかしこの関係はあくまで相対的な「君君たらずんば、臣臣たらず」といった関係で、いわば両者の関係は信義誠実を基にすべきであるといった契約的な意味の誠実さで、これがおそらく「忠」という概念であろう。(p.145)
三十年前までの日本は、「忠孝一致」で「考」を組織へと拡大化した状態を「忠」と呼び、「君、君たらずとも臣は臣たれ」を当然とした社会であった。(p.145)

元々の「忠」は、「上司がその努めを果たすのであれば、部下も誠実に仕えるが、上司がその努めを果たさないならその限りでない。」といった契約的な関係であったが、徳川時代以降の日本人にとっては「上司がその努めをせずとも、部下は上司の意向を推し量り、よしなに事を取り計らう。」ことが「忠」であり、「考」であり、日本的儒教として現代日本人の考え方にまで影響している。

「君、君たらずとも臣は臣たれ」=「部下は上司の意向を推し量り、よしなに事を取り計らえ」の日本的儒教の精神が「忖度」を生んでおり、つまりはそこに”お上の意思・意向”を探る臨在感的把握に至る精神的背景が構築されてしまっているのだ。

まとめると、
・日本人に根付くアニミズム的考え方がほぼそのまま臨在感的把握の下地になっている
・日本的儒教による忖度が臨在感的把握に至る精神的背景を構築している

特に2つめは組織における空気醸成の鍵となるため、さらに深堀りしながら見ていきたい。

 

組織における空気の醸成

空気の醸成にフォーカスする前に前提となる話をしたい。
通常、集団の中で生きるには、「何が善いか悪いか」という倫理基準が人々の行動指針になる。

この倫理基準は、情況倫理と固定倫理の2つに大別される。
情況倫理とは、本書の言葉を借りると

「あの情況ではああするのが正しいが、この情況ではこうするのが正しい」(p.115)

といった、情況によって善い悪いの基準が変化する倫理観である。
その状況がどうだったかを判断するのは人間だから、言ってしまえば人間を基準にした倫理観ともいえる。

一方で固定倫理とは、情況に左右されず、常に固定の基準で善い悪いを判断する。人間が関わってしまえば基準は変化してしまうから、基準は非人間的であることが求められる。
そして、非人間的な基準であるからこそ、”平等”なのだという考えであり、これが西欧の倫理基準のスタンダードになっている。

古代における「計り」の神聖視や神授による倫理的規範の絶対化、例えばモーセ十戒から、メートル方や様々の必然論にまで一貫している考え方である。(p.123)

固定倫理であるということは、どのような情況においても罪は罪であるという考えであり、例えば餓死寸前で仕方なく働いたパンの盗みも罪は罪であり、情状酌量の余地は無いという世界である。(その分、人権はなるべく保証しようとするが。)

一方で日本には元来そうした概念がなく、人間を基準に生きてきた。
餓死寸前で仕方なく働いた盗みであれば仕方ないと考えてしまう。それは、もし自分が同じ情況だったら同じことをしてしまうから、それは罪に問うべきでない、という考え方である。

「そもそも自分は悪くない、その情況であれば誰でもそうしてしまうから、その情況を創り出した者が悪い」という、ある種の「自己無謬性」「無責任性」がベースになっており、自分に責任がないことを主張できることが日本人が考える平等なのだ。

 

以上のように、我々は日本的平等主義に根ざした情況倫理の世界に生きているが、組織となるとどうなるか。

固定倫理、すなわちルールが無いのでその基準を人、すなわち絶対者(リーダー)に求めるようになる。

もしリーダーが明確にルールを定め、運用できているのであれば空気は発生しない。しかしその多くは明確なルールを設定しない。

様々な理由があると思うが、これもまた日本的儒教の「忠孝一致」が根底にあり、リーダーが1から10まで指示しなくてもよしなに事を取り計らえという文化がベースになっているからではないか。

リーダーはルールを設定していないから、もし何か発生してもリーダーの責任ではないという考え方。これもまた日本的平等主義でも出てきたようなある種の「無責任性」が垣間見える。

話を戻すと、リーダーがルールを設定しないから、メンバーは、リーダーが何を善い悪いとしているかを臨済感的把握によって推し量るしか知り得ないという情況になる。(①情況の恣意的創設)

これをすべきなんだろう、これはしていけないだろう、という臨済感的把握(②)の積み重ねで情況倫理を構成していき(③)、それが次第に空気となり(④)、自ら創り出した実態の無い何かによって行動や言論が支配されるのだ。

空気の醸成

 

以上が組織における空気の醸成の一連の流れである。
この一連の構図を、山本七平は「虚構」と呼んでいる。

 

空気への対抗手段

空気の醸成の構図は理解したが、どうすればこの空気に対抗できるのだろうか。

「水を差す」

空気によって議論があらぬ方向に行きかけたとき、「水を差す」ことによって現実に戻すことができる。

われわれの祖先が、この危険な「空気の支配」に全く無抵抗だったわけではない。少なくとも明治時代までは「水を差す」という方法を、民族の知恵として、われわれは知っていた。(p.92)

水とは、現実に引き戻すある種の劇薬のようなものであり、現実に引き戻してくれることから、水=通常性という紹介がされている。

では明治以降の「水=通常性」とは何か。
それは、「日本的儒教をベースとした父と子による虚構の隠し合い」である。
虚構は、実態としては存在しない誰かにとって都合のいいもの(無責任性を維持できる、皆にとって都合のいいもの)であり、日本的儒教によって叩き込まれた「忠孝一致」によってそれを瓦解させることを頑なに拒むことが、現代日本人という民族の水=通常性なのだ。

誰かがこれはおかしいと虚構に水を差しても、根底にある水=通常性=虚構を虚構として指摘することが悪=父と子の隠し合いによって、おかしいという意見に水が差され、指摘したものは排除され、さらなる空気の醸成と維持のスパイラルで抜け出せない状態になっているのである。

つまり、我々は空気に対抗できる「水」を未だ持てていないのが現状なのだ。

空気の醸成と水

われわれは今でも「水を差す自由」を確保しておかないと大変なことになる、という意識を持っており、この意識は組織内でも組織外でも働き、同時にこの自由さえ確保しておけば大丈夫という意識も生んだ。だがしかし、この「水」とはいわば「現実」であり、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、この通常性がまた「空気」醸成の基であることを忘れていたわけである。そして日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない「父と子の隠し合い」の世界であり、従ってそれは集団内の情況倫理による私的信義絶対の世界になって行くわけである。そしてこの情況倫理とは実は「空気」を生み出す温床であることはすでにのべた。そしてその基本にあるものは、自ら「情況を創設しうる」創造者、すなわち現人神としての「無謬人」か「無謬人集団」なのである。(p.184)

 

ではどうすればよいか。

多くの人は、この構図、すわなち虚構の中に生かされていることを理解していないため、この世界を絶対的なものだと信じて疑わない。

絶対的なものだと信じて疑わないから、情況という虚構性を無批判に迎合してしまう空気ができてしまい抜け出せない。

世界を知り、様々な考え方を知り、相対化してみて初めて自分たちが何者かを知ることができる。己のアイデンティティとその根底にある価値観とその背景が見えてきて初めて、真の対抗手段を見出すことができるのだ。

つまり、自分たちが虚構の中に生きているということを自覚することが第一歩なのだ。

われわれは残念ながらまだ新しい水を発見していない。だがその新しい「水」はおそらく伝統的な日本的な水の底にある考え方と西欧的な対立概念による把握とを統合することによって見出されると思われる。(p.93)

 

オフメットの隙間の雨粒

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土砂降りと呼んでいい雨だった。

目覚まし代わりの雨音は心の芯までずぶ濡れにさせる。

 

ゴアテックスのマウンテンパーカーは今か出番かと散歩前の犬のように待機している。

ダボダボのレインパンツに足を通し、裾を引きずって長靴に足をねじ込む。

 

暗澹とした気分は晴れる兆しがない。

 

久しぶりのまとまった雨は視界を奪うほどだ。

トンネルで息を止めるように、会社につくまでの辛抱と雨粒を全身で受け止めながらアクセルをひねる。

 

ウェアも靴も完璧なはずなのに、どこからか雨粒が侵入してくる。

 

オフメットとゴーグルの隙間だ。

虚空を睨むように顎を引き、オフメットのツバで弾こうにも防ぎ切れない。

 

雨粒は顎を伝いインナーまで到達。

20度前半の荒天日には堪える。

 

雨の日は毎回オフメットを悔やむのに、頑なにフルフェイスは買おうとしない。

きっとわかってくれるだろう全国の頭のおかしいオフローダーへ捧ぐ。

 

 

月末の残業事情

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「残業足りないから早上がりします。」

 

私の勤め先では月の残業時間が厳密に管理されており、月初に付与された時間を1分足りともオーバーできない。

 

組合が強く、月の労働時間を制限しているおかげで過労で倒れるという事態は限りなくゼロに近い。

 

有り難い一方で、相応に仕事が減るわけでも無いので常に残業時間はかつかつ。

もっと残業させてくれという事態に陥っている。

 

月末になると貯金(月初に付与された残業時間)を数え始め、薄い財布を叩いてもホコリすら出ないから、早上がりするしかなくなる。

 

というわけで久しぶりに17時前に退社し、まだ明るい空を見て少し罪悪感を覚えつつ、文明人らしい心のゆとりを思い出しながら家に帰るのが月末の恒例なのだ。

 

通勤と初夏の緑

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冷たかった朝の空気がいつの間にかぬるくなっている。

6月も残すところあと数日。

 

またこいつを被るのかと若干憂鬱な気分になりながらヘルメットのあご紐を引っ張る。

 

登校する小学生の弾けた声が響く。

キーを差し込み、セルを回すと小気味よい排気音が呼応する。

 

街路樹の陰を踏みながら風を切って走る。

シャツの隙間から覗いてくる風はまだ少しひんやりとしている。

 

信号待ちでふと顔を上げると、道路の両脇に架かる吊橋を高校生の自転車が軽快に駆けていく。

太陽に照らされた白いフレームと、新緑のコントラストが眩しい。

 

そんな1シーンが初夏の到来を強く感じさせた今朝だった。

 

今さらマトリックス

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久しぶりにマトリックスを見た。

 

Prime Videoで100円セールをやっていたので、何の気なしに見ることにした。

 

見始めてから「huluでも公開されてんじゃね」と思い調べたら案の定huluに上がってる。

huluも登録しているのでそっちで見れたのにチクショ-。

 

マトリックスは小学生の頃に1度見ただけ。銃弾を避ける有名なシーンが頭に焼き付いてるだけで、内容は特に覚えていなかった。

 

プログラマーチックなアングラな雰囲気に惹かれて例の緑の文字が流れるやつをパソコンのスクリーンセーバなんかにしてたのは覚えてる。

 

あれから20年以上が経ち、心も相応に年をとり、いろいろな知識がついた状態で見返したらあれこれこんな面白かったのかと。

 

最近は哲学や宗教に興味が出てきて、界隈の本をkindle unlimitedで漁っているおかげか、マトリックスの世界観が仏教に基づいていることに気がつけた。

 

ネオがモーフィアスに連れられて預言者に会いに行くシーンがあるが、待合室にいるキッズの中に密教の本を読んでる子もいるくらい。

この脚本の世界観に仏教が大きな影響を与えているのは間違いないだろう。

 

いわゆる「唯識」がテーマだと思われる。

 

いくつか引用したいと思う。

 

おまえはもっと速い。考えずに、知るんだ。さあ来い。殴ろうとするな、殴るんだ

すべてを解き放たなければならない。恐怖も、疑心も、不信も。心を解き放て

そうすれば分かるよ。曲げるのはスプーンじゃない。自分自身なんだ

live-the-way.com


君が感じるもの、匂うもの、味わうもの、見るもの、それを「現実」と言うなら、君の脳から発せられた単純な電気信号に過ぎない。

novella.works

 

 

アツい。

釈迦が至った境地であり、その2000年以上後にカントが追いついた境地でもある。

 

何が夢で何が現実か。

インセプションと通じるものもあると感じた。多少はマトリックスからインスパイアされてるんじゃないかな。